2006年度1学期後期「実践的知識・共有知・相互知識」へ   入江幸男

第8回講義 (June . 2006

 

■これまでのまとめ■

「講義で何が問題になっているのか、よくわかりません」というコメントがいくつかあったので、これまでの講義で私が伝えたかったことをまとめます。

 第一に、アンスコムの「実践的知識」論を紹介することでした。彼女はこれによって、「意図的行為」を内省によらずに定義することに成功しました。

 第二に、同一の行為について複数の記述が可能であり、それらの記述間には、因果関係や規約による関係があることを確認しました。これは、「我々の行為」を分析するために、必要になるからです。

 第三に、「実践的知識は、本当に観察によらない知であるのか」という問題を考えました。「実践的知識」の特異な点は、それが観察によらない知であることにあるので、そのことの証明をこころみました。その証明が完全に出来たとはいえません。内省による知であるという主張を、どう批判できるかが、子のされた問題です。内省の無限反復におちいるという批判をしましたが、しかし、その批判を免れる説明方法が、まだ可能かもしれません。(我々は、ここから、「内省」概念そのものの批判、つまり「内省は存在しない」という主張をおこなうことができるかもしれません。)

 第三に、「「我々」の実践的知識もあるのか」という問題を考えました。「私はサッカーをしています」と答えるのと同じように、「我々はサッカーしています」と答えるように思われる。そうだとすると、後者もまた実践的知識である。後者が実践的知識であるとすると、それは、我々についての私の知ではないだろう。たとえば「彼らはサッカーしています」は、彼らについての私の知である。この知は観察による知である。もし上の知が、我々についての私の知であるとすると、それもまた観察による知であることになる。もし、この知が観察によらない知であるとすると、「我々はサッカーしています」と答える者(知る者)は、私ではなく、我々であるように思われます。

 

§5 共有知・相互知識についての従来の説

人々が一つの知を共有しているという事態を説明するために、「共有知」や「相互知識」や「相互信念」などの言葉で、これまで分析が行われてきた。ここでは、その主なものを紹介して、問題点を明らかにしたい。

 このような知に対する注目は、既にフィヒテの契約の分析や、ヘーゲルの承認論の中に登場する(これらについては、2学期に検討する)。あるいは、思想史の上では、他にも先行するものがあるかもしれない。しかし、知としてのその特殊性が明確に意識され始めたのは、1960年代からではないかと思われる。

Tuomelaによると哲学者、経済学者、社会学者、心理学者などによって、少なくとも1960年代に注目され始めた(Tuomela 2002p.33)ということである。彼がそこで挙げるのは、

Schelling, T.C., 1960The Strategy of Conflict, Harvard UP.

Scheff, R., 1967, ?Toward a Sociologica Model of Consensus,“ American Sociological Review 32, pp.32-46.

Lewis, D., 1969, Convention: A Philosophical Study, Harvard UP.

Schiffer, S., 1972, Meaning, Oxford UP.

などである。

 その他に私が重要だと思うものは、非常に早い時期の仕事として、

  Ruesch Bateson, 1951, Communication, Noton.

社会学で大きな影響力をもつものとして

  Luhmann, N., 1972, Rechtssoziologie, Rowohlt Tawschenbuch.

語用論で大きな影響力を持つものとして、

  Sperber & Wilson, 1986, Relevance, Blackwell.

最近のものとして、

  SearleJ.R., 1995.,The Construction of Social Reality, The Free Press.

    Tuomela, Raimo., 2003., The Philosophy of Social Practices. Cambridge UP.

    中山康雄, 2004,『共同性の現代哲学』勁草書房。

などである。(私自身の論稿は、別途紹介する)。

 

 この中からいくつかを取り上げて紹介しよう。

 

 

1、Gregory Batesonの「相互覚知」概念

 ベイトソンによれば「相互覚知」(mutual awareness)とは、「相手がこちらを知覚していることをこちらが知っており、相手もこちらが知覚している事実をわきまえている」(ベイトソン&ロイシュ『コミュニケーション』思索社 1951、p.224)

(1) Sは、Hを知覚している。

(2) Hは、Sを知覚している。

(3) Sは、HがSを知覚していることに気づく。

(4) Hは、SがHを知覚していることに気づく。

 

以上の4つが成立していることを、ベイトソンは「相互覚知」と呼んでいる。

しかし、彼が言及していない要素がここには、欠けている。それはつぎの二つである。

 

■集団にとっての意味

「二者システムでは新たな統合が起こるのだ。集団が決定因となるには、参加者が相手の知覚に気づいていることが必要である。相手がこちらを知覚していることをこちらが知っており、相手もこちらが知覚している事実をわきまえているとき、この相互覚知は、参加者二人のすべての行為と相互行為の決定因となるのである。このような覚知が樹立すると同時に、こちらと相手で決定因集団を構成し、この大きな実在における集団プロセスの特色が二人を統制するのである。ここでも共有された文化的前提がモノをいう。」(224)

 

■動物に相互覚知はあるか?

 「操作的に、集団が高次段階にあるかどうかを決めるには、参加者が信号の発信を、その発信が相手に聞こえるか、見えるか、分かるかを配慮して自己修正するかどうか観察すればよい。動物にはこのような自己修正があまり見られないし、人間の場合でも望ましいにも関わらず、常に存在するとはいい難い。

動物が次の信号を見分けることができるかどうかは重大であろう。すなわち、(A)他から発せられた信号の確認としての信号、(B)信号を繰り返してもらいたいので送る信号、(C)信号を受けそこねたことを示す信号、(D)信号の流れを中断する信号。相手の知覚を完全に覚知し、信号が受容され、相手が受容の確認

を終えたら、こちらから信号は繰り返すべきではない。この種の自己修正があれば、知覚の相互覚知があるとみてよいだろう。ひるがえって、今述べたような順応行為がない場合は相手の知覚が覚知されていないことになる。」

 

 この発信の自己調整は、例えば、自分の発信が相手に届いたどうか、届かなければ、繰り返したり、もっと大きな声で言ったりなどの、調整をすることである。つまり、調整によって、自分の発信を相手が知覚したことを自分が覚知するのである。ゆえに、このようなメタコミュニケーションによる自己調整は、相互覚知を求めて行う行為だといえる。

「進化のこの段階は、ホ乳動物、霊長類と家畜にしかみられないものだろう。」

 

(2)Lewisの「共有知識」概念

 

David Lewis “Convention” 1969 からの引用

 

“Take a simple case of coordination by agreement. Suppose the following state of affairs --- call it A --- holds: you and I have met, we have been talking together, you must leave before our business is done; so you say you will return to the same place tomorrow. Imagine the case. Clearly, I will expect you to return. You will expect me to return. I will expect you to expect me to expect you to return. Perhaps there will be one or two orders more.

 What is it about A that explains the generation of these higher-order expectations?

I suggest the reason is that A meets these three conditions:

    (1) You and I have reason to believe that A holds.

    (2) A indicates to both of us that you and I have reason to believe that A holds.

    (3) A indicates to both of us that you will return.

What is indicating? Let us say that A indicates to someone x that ___ if and only if, if x had reason to believe that A held, x would thereby have reason to believe that ____. What A indicates to x will depend, therefore, on x’s inductive standards and background information.”  (pp.52-53)

 

 

“Let us say that it is common knowledge in a population P that ___ if and only if some state of affairs A holds such that:

  (1) Everyone in P has reason to believe that A holds.

   (2) A indicates to everyone in P that everyone in P has reason to believe that A holds.

   (3) A indicates to everyone in P that ____.

We can call any such state of affairs A a basis for common knowledge in P that ___. A provides the members of P with part of what they need to form expectations of arbitrarily high order, regarding sequences of members of P, that ____. The part it gives them is the part peculiar to the content ____. The rest of what they need is what they need to form any higher-order expectations in the way we are considering: mutual ascription of some common inductive standards and background in information, rationality, mutual ascription of rationality, and so on.”  (pp.56-57)